潮の香りの漂う空気、靴まで侵入してくる細かい砂、青々と輝く水面。どれもこれも、現実に、目の前にあるのだ。
「おばあちゃんの言った通り」
ナラは砂浜に大きな茜色のリュックを下ろし、足を前に放り出した。一日中バスに乗っていたせいで、体のあちこちが痛かった。だけど体の疲れとは裏腹に、心は益々元気になって行くようだった。
海は祖母が話してくれた通り、いや、それよりももっと素敵なものに思えた。波の音が耳に心地よく、頭の上で輝く太陽が、ナラともども、世界を照らしているような気がした。
「あなた、見かけない子ね?」
背中からふいに飛んで来た声に振り向くと、こんがりと日焼けした、女の子が立っていた。
ナラは立ち上がり、女の子と向き合った。女の子の背丈はナラと同じくらいだけど、その佇まいはナラよりもずっと大人びて見える。
「私、さっきここに着いたの。旅を始めたばかりなんだ」
ナラが女の子に答えた。
「旅ね。最近旅をする子、多いわよね」
女の子の喋り方は何だかつんとしている。
「えっと、私、ナラっていうの」
ナラが左の頬を差し出すと、女の子は少し躊躇いつつも、ナラの頬っぺたにチュッとキスをした。
「私はエマ」
女の子はぶっきらぼうに名乗ったかと思うと、
「あっちの岩場、行かない?」
と言ってスタスタと歩き出した。手にはトラ猫の刺繍が縫い付けられたトートバッグを持っている。
ちょっと変わった子だな、とナラは思った。どこかトゲトゲしていて、でもとっつきにくい感じはしない。
「あの、エマは何歳?」
エマの背中にナラが話し掛けた。
「十三歳。あなたは?」
「同じ。私も十三歳」
旅先で初めて出会った人が、自分と同い年の子だということがナラには嬉しかった。旅に出たことが間違っていないという証のように思えた。
大きなリュックを背負い、エマに付いてしばらく歩くと、茶色っぽい平らな岩が一続きになっているところが見えて来た。岩も日焼けするのかなと思いながらさらに付いて行くと、エマは大きな木の下で足を止めた。木は小さな葉っぱをたくさん付け、岩の上にぽっかりと木陰を作っている。
「ここ、好きなの。涼しいから。私、休みの日はよくここで本を読むの」
エマが岩の上に座りながら、少し照れたようにナラの方を見た。
「本なら私も大好き。エマはどんな本を読むの?」
ナラもエマの隣に座った。波の音がより大きく、はっきりと響いて来る。海が側にあることで、ナラは不思議と安心感を覚えた。海を見ること自体が初めてのナラには、そのことが不思議だった。
「今読んでいるのは『ケイの渦(うず)道(みち)』ってやつ。あのね、私の家、本屋なの」
まるで秘密を打ち明けるかのように、エマは持っていたトートバッグから分厚い本を取り出した。たぶん今日もここで読む予定だったのだろう。ナラはエマが心を開いてくれたみたいで嬉しかった。
本の話で気の合った二人は、夢中でこれまでに読んだ物語について語り合った。
「エマは、家では読まないの?」
ナラが何気なく尋ねると、エマの顔がみるみるうちに曇って行った。
「エマ……どうしたの?」
ナラはエマの顔を覗き込むようにした。
「私も旅に出たい」
エマがボソッと呟いた。
「出ればいいじゃない」
「許してくれないもの。お父さんが」
エマの口から発せられた、お父さん、という単語が消えそうだった。
「お父さん、厳しいの?」
ナラの問いに、エマはふーっと一度息を吐くと、お父さんが毎日お酒をたくさん飲むこと、酔っ払うとエマに暴力を振るうこと、を話してくれた。
「暴力ってどんな?」
「背中をバンッて叩かれるの。これ、見て」
エマがくるっと後ろを向き、着ているシャツを捲ると、背中にいろんな色の痣が浮かび上がっていた。
「お母さんは何も言わないの?」
「お母さんは死んじゃっていないわ」
「学校の先生には?」
「学校の先生に言うのは、怖いの。何か色々壊れそうだもの」
ここまで話すとエマは下を向いて、黙ってしまった。
いきなりの告白にナラは戸惑っていた。ナラには子どもに暴力を振るいたくなるお父さんの気持ちがちっとも分からなかった。
しかしながら、ナラは運命的なものを感じてもいた。
というのも、ナラはこの旅で、祖母から使うことを固く禁止されていた、ある力を解放しようと思っていたからだ。
「エマ、少しの間、じっとしててくれる?」
エマが不思議そうにナラを見た。ナラは一度大きく深呼吸をした。
本当のところ、ナラは力を使うことが怖かった。体の奥が震えるくらいに。前に一度だけ、たった一度だけ使ったときの恐怖が、まるで当たり前のようにナラの中を駆け回った。
「ナラ、大丈夫?」
エマの声にナラは我に返った。目の前の女の子を助けたい、その気持ちだけに集中することにした。
ナラはエマに近付き、彼女の体を抱き締め、同時に意識もギュッと集中させた。すると、エマの感情がシューッとナラの中に入って来た。
「私……」
エマが、何が起こったか分からない、というようにナラを見た。
「ごめん。ちょっと話し掛けないで。三分間だけ待っててくれる?」
ナラはエマから体を離し、自分の心に集中した。エマの苦しい感情を吸い取ったナラは、これまでに感じたことのない気持ちの中にいた。怖い嫌だムカつく壊れろ恥ずかしい悲しい好き嫌い壊れないで。エマの感情から出て来る様々な言葉が、忙しくナラの中を走り回った。
苦しいな、こんな気持ち耐えられそうにないや。だけど、大丈夫。だってこれは私の感情じゃないから。私には私に暴力を振るうお父さんはいないもの。
ナラは一生懸命、この感情は私のものじゃないと自分に言い聞かせたが、ナラの中に入ったエマの苦しみは、容赦なくナラを攻撃した。ナラには三分間が永遠のように感じられた。
伝わって来る波の音に神経を集中させた。海が全てを包み、洗い流してくれることを思い描いた。
祖母の顔が浮かんで来た。心の中で大好きだった祖母に謝った。おばあちゃん、ごめんなさい。力を使ってしまって。だけど私はこの力のことを知りたいの。
漸く、途方もなく長い三分間が過ぎた。ナラの中からエマの苦しみはスーッと消えて行った。
もがき、苦しみ、ナラの体は疲れ切っていた。だけど、一旦苦しみが消えてしまうと、心の方はさっきまでが嘘のように楽になった。
「よかった、上手く行った。エマの苦しい感情は消えちゃったよ」
ナラはエマの方を見てにっこりと笑った。
「どういうこと?さっきナラに抱き締められた瞬間、胸の重たいのがなくなって、心が平らになったみたい。それなのにナラがすごく苦しそうで、私……」
「エマの苦しい感情を吸い取って消しちゃったの。上手く行ってよかった」
ナラの言葉にエマの目はまん丸になっている。
「分からないわ。超能力?ナラ、あなたって魔法使いか何か?それとも……」
エマが早口にまくし立てた。ナラは、驚き興奮するエマの反応が面白かった。
「エマ、ちょっと落ち着いて」
「落ち着けないわ。だって、その力でみんなの苦しいのがなくなるわ。世界から苦しいのがなくなるわ」
本を読むのが好きなエマの頭の中には、いろんな想像が巡っているようだ。
「エマ、あのね、もしもまた、その、お父さんから暴力振るわれたら、また苦しくなると思う」
エマの動きが止まった。
「そっか、そうよね」
「ごめん。嫌なこと思い出させて。私、さっきエマの感情を吸い取って、同い年のエマがこんなに苦しんでるのを知って、その、どうすればいいか分からないの」
「ううん。私、今、生まれて初めてこんなに心が穏やかかもしれないわ。ナラ、ありがとう」
エマがナラに近付き、頬っぺたにキスをした。
「ね、ナラはどうしてそんな力、使えるの?」
エマがナラに問い掛けた。
「そのことはまだ、話したくないんだ。それより、今晩、泊めてもらえる?」
「うん、大丈夫だと思う」
この国では十三歳になると子どもは旅に出ることができる。旅をする子どもは多いから、やって来たら家に泊めてあげるのが普通なのだ。暴力を振るうお父さんのいるエマの家に行くのは怖い気持ちもある。だけどそれよりも、ナラはエマの抱えている問題から逃げたくなかった。
「ナラが泊まってくれたら、お父さんも暴力振るわないと思うから、私も助かるわ」
いつの間にか、波がみかん色に染まり始めていた。エマが立ち上がり、ナラの手を取った。
すっかり友達になった二人は、エマの家に向かって、仲良く歩き始めた。