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「私のお父さんの感情を吸い取る?」
夕飯をご馳走になり、お湯をもらい、エマの小さな部屋で寛ぎつつ、ナラはさっきからずっと考えていた計画をエマに話した。
「ケンも心が平らになったら、エマを叩いたりしなくなるかもしれないじゃない。それに、私、ケンの気持ち、知りたいの」
ナラが、旅をしていること、今晩泊めて欲しいことを話すと、ケンと名乗ったエマのお父さんはナラを歓迎してくれた。ほっそりとしていて、大人しそうな印象で、とてもお酒を飲んで子どもに暴力を振るうようには見えなかった。
夕飯には、ケンお手製のトマトスープと豚肉のパイ包みが出された。どちらも塩が効いていて、ナラの疲れた体を癒してくれた。
「外面はすごくいいの。お客さんからも慕われてるわ。ううん、お酒さえ飲まなければ私にとってもいいお父さんよ。勉強を教えてくれたり、自分で作った物語を聞かせてくれることもあるわ」
開け放たれた小さな窓からは、行き交う人々の話声が聞こえて来る。
「私、お酒のせいだけじゃないと思う。だって、お酒を飲んでも子どもを叩いたりしないお父さんの方が多いよ」
「うん……」
エマが下を向いた。何か考えているようだ。
「ね、ナラ。このままここで暮らしたら?そうしたらお父さんもずっと優しいままかもしれない」
エマの顔が、名案を思い付いたというようにパッと明るくなった。
「駄目よ。私は旅を始めたばかりだもの」
ナラも同い年のエマと一緒に暮らせたらどんなに楽しいだろうと思った。だけど旅をやめる訳には行かない。ナラは、この旅を通して、出会った人々の苦しみを消して行くと決めたのだ。祖母には禁止されていた力を使って。
「明日、私やってみる」
決意を胸に、ナラは清潔なベッドにエマと並んで横になった。疲れていたこともあり、すぐに深い眠りの中に落ちて行った。
あんなに早く寝た筈なのに、目が覚めたとき、太陽は既に頭の上に昇りかけていた。ナラは朝が苦手なのだ。まだ眠りたい頭を抱え、一瞬、自分がどこにいるのか分からなかった。
ああ、私、旅に出たんだったわ。バスに揺られて、辿り着いた海辺でエマに出会って、それで……。
頭が冴えて来ると、ナラはすぐに自分の使命を思い出した。隣に寝ていた筈のエマは、既に起き出したようで姿が見えない。ナラは急いで着替え、エマの部屋を出た。
ダイニングにはナラの分と思われる朝食が準備されていた。トウモロコシのパンとスクランブルエッグとチョコミルクだ。
「おはよう」
ナラの起き出したのを聞きつけたらしいケンが、部屋から出て来た。
「ケン、おはよう。あの、エマは?」
「ああ、下で店番をしているよ」
エマの家は一階が本屋、二階が住居になっている。この国ではいつ学校に行くのも自由だから、エマは今日は通学しないようだ。
「ケン、昨日は泊めてくれて、本当にありがとう」
ナラは今がチャンスだと思い、ケンに抱き着き、意識をギュッと集中させた。するとケンの感情が、ナラの中にシューッと入って来た。
ケンがポカンとしている間に、ナラは、すぐに体を離し、
「私、朝ご飯は後で食べるわ」
と言い残し、吸い取った感情を抱え、そそくさとエマの部屋に戻って行った。
エマのときと比べ、今回の方がずっとずっと苦しかった。ケンは、穏やかに見えたのに、いろんな苦しい感情を持っていてびっくりした。
怒りや後ろめたい気持ちがあった。後悔や恐怖もあった。他にもいろんな感情が渦巻いているけれど、言葉にできない。その中でも、一番大きかったのは怒りだった。怒りの感情がナラを捉え、苦しめた。一体、ケンはどうしてこんなに怒っているのだろう。
ナラは外の喧騒に意識を移した。なるべく苦しい感情から気持ちを反らそうとした。
三分は、途轍もなく長かった。エマのとき同様、この苦しみが永遠に終わらなかったらどうしようという恐怖に襲われた。
祖母がそこにいた。おばあちゃん、私を守って、と胸の中で唱え続けた。
やっと苦しみから解放されたとき、ナラは息を切らし、ぐったりと疲れていた。けれども、苦しみが去ってしまうと、胸の方はさっきまでが嘘のように楽になっていた。ナラは、ケンの苦しみが自分のものじゃないことに、心から感謝した。
「ナラ、入るわよ」
丁度いいタイミングで、エマが戻って来た。苦しんでいるところを見られなくてよかったとナラは思った。
「さっき、お父さんが店に来て、『今まで経験したことのないくらい平和を感じる』って言ってたんだけど、ナラ、あなた、お父さんの感情を吸い取ったのね?」
ナラはエマに向かって微笑んだ。
「うん。ケンが平和になったのなら、やった甲斐があったわ」
エマが心配そうにナラを見た。
「私なら平気。もうすっかり苦しいのは消えちゃったから」
それからナラは、ケンの抱えていた怒りのことを話した。後悔や後ろめたさや恐怖のことも話した。
「お父さんは何に怒っているの?」
「分からない」
「でも、もう怒っていないのね?」
「うん、今はもう怒ってないと思う」
エマはにっこり笑い、ナラに抱き着いた。
「ナラ、私、今すごく嬉しいの。だから、私の感情を吸い取って」
ナラもエマをギュッと抱き締めた。
「エマ、ありがとう。だけど、私が吸い取ることができるのは苦しい感情だけなんだ」
エマが体を離してナラを見た。ナラもエマを見返して、微笑んだ。
「だけど、私も今、嬉しいんだ。エマの役に立てたことが嬉しいの」
ナラは体中に喜びが漲るのを感じていた。人が喜ぶのを見るのがこんなに嬉しいなんて、やっぱりこの力を使ってよかったと思った。
エマがもう一度ナラを抱き締めた。ナラはエマの体に身を委ねた。
窓の外から、誰かの笑う声が伝わって来た。
作者 小桐千歩
表紙絵 O_T_T(絵と図デザイン吉田)