7
どれくらいの時間が過ぎただろうか。いつの間にか止んだ雨にも気付かず、ナラは歩き続けていた。夜は深まり、小雨に打たれて湿った服が体に纏わり付いてくる。
ふと顔を上げると、遠くの方に、何やら赤い光のようなものが浮かんでいた。あれは何かしら。暗闇を照らす不思議な煌き。惹き付けられるように、ナラはその光のもとへと近付いて行った。
そこは大きな橋の下で、暗くて分からなかったけれど、側には幅広い川が流れていた。赤い光の正体は、ボーボーと燃え盛る炎だった。ナラは生き物のように踊る火を、少し離れたところから眺めた。それは暗くて寒い孤独な夜に、唯一ナラの心を照らしてくれるもののように思えた。
「自分、誰なん?」
背中から声を掛けられ、ナラはヒャッと体が飛び上がりそうになった。振り向くと、ナラと同じくらいの少年が立っていた。
「あ、あの、私」
「濡れてるやん。そっち座り」
少年はナラを炎の前に座らせた。よく見ると、側には少年のものと思われる荷物が置かれていた。リュックに鍋のようなものに、畳まれたテント。この少年も旅人なのだと、ナラは思った。
「俺はライトゆうん。自分は?」
どこの訛りだろうか、ライトは独特の喋り方をする。
「私は、ナラ」
ナラがそっとほっぺを差し出す。ライトはナラに近付き、チュッとキスをした。
「自分、何でこんな時間に一人でほっつき歩いとるん?」
「あなただって」
「俺は基本、テントやもん」
ライトは畳まれたテントの方を顎で差した。
少年の話によると、彼も少し前にここに辿り着いたばかりだそうだ。
「テントなんて素敵ね。火もあなたが起こしたんでしょ?」
炎は絶え間なくパチパチチリチリと音を立て、本当に生きているかのようだ。
「ああ、火おこし、魚釣り、料理、何でもするで」
聞くと十二歳だという。自分より年下の少年のたくましい生き様に触れて、ナラの沈んでいた気持ちはいくらか明るさを取り戻した。
「旅に出られるのは十三歳からなのに、どういう訳なの?」
ナラは年上の威厳を出そうと、少し威張って見せた。
「まあ、ちょっと早まってみたっていうん。早う旅出たかったし。俺の中の冒険家の血が騒ぐってゆうか」
よく分からなかったが、ライトの真っ直ぐさだけは伝わって来た。
「で、自分はどういう訳なん?いつから旅しとるん?家はどこなん」
矢継ぎ早に繰り出されるライトの質問に、ナラは一つ一つ答えて行った。
「ふーん。家族死んでもーて、ほんで旅始めたって訳か。それにしても夜中に雨打たれながら歩いとるってことは何かあったんやろ?自分、顔に悩んでますって書いとるで」
ナラは、迷った。力のことを話していいものかどうか。マリアに注意されたばかりだし、祖母にも怒られる気がして、いや、それよりも何かもっと大きな力に止められている感じがした。
「えっと、私、海の側から長距離バスに乗ってここまで来たんだけど、降りてみたら田舎で、人もあんまりいなくて、寂しくなって。雨を浴びたらちょっとすっきりするかなって」
ナラは嘘を吐いた。
「すっきりどころか、風邪ひくで。まあ、俺に会えたからよかったやん。腹減っとる?何か食べる?」
言いながら、ライトはリュックからオートミールを取り出した。それを鍋に入れ水を注ぎ、炎の上に置いた。一連の流れが手際よく、慣れているのがナラの目にも分かった。
「今日は買い物できんかったから、これで我慢して」
ライトはナラの言ったことをすっかり信じたようだった。力のことは、今は一旦考えないようにしよう、ナラはこう心に決めた。
やがてグツグツ沸き始めた鍋を、ナラは愛おしく見つめた。いつの間にか湿っていた服もすっかり乾き、腹の虫が鳴き始めていたのだ。気遣いのできるライトは年下どころか、頼もしい大人の男のように見えた。
「ほい。特別にこのお皿、使わしたる」
ライトが熱々のオートミールを注いだお皿は、木製で底が深く、側面に「ライト」と美しい文字が掘られていた。
「じいちゃんの形見なん。じいちゃんは生粋の冒険家でな、旅の途中で出会った皿職人に頼んで、これ、作ってもらったん。俺が一番大事にしとるお皿なんやで。これ持っとったら冒険家のじいちゃんに守られるゆうん」
へへっとライトは少し照れながら、おじいさんとの思い出を語ってくれた。ナラが祖母に守られている気がするように、ライトもおじいさんを心の糧に旅をしているようだ。
「そんな大事なお皿、使わせてくれてありがとう」
ナラは素直にお礼を言った。
「冒険家同士、友情の証や」
冒険家という言葉がいかにもライトらしく、ナラはクスッと微笑んだ。温かいライトと炎とオートミールに励まされ、ナラの心もじんわりと温まったようだった。
事件が起きたのは、翌日、朝食を食べ終えたときだった。
「あーっっ」
川の方からライトの奇声のような叫び声が聞こえた。ナラが急いで駆け付けてみると、ライトがまさに川の中に入ろうとしていた。
「駄目っ」
ナラはライトの体にしがみついて彼の動きを止めた。川の流れは速く、ライトまで流されてしまいそうだと思ったからだ。
「俺の皿、じいちゃんの皿」
見ると、ライトの大事な皿は既に見えるか見えないかのところを浮き沈みしている。
「落ち着いて」
「落ち着けるかいっ」
朝ごはんのあと、お皿を川で洗っている最中に手を滑らせ流してしまったらしい。ライトの顔は真っ赤に膨れ、今にも泣き出しそうだ。
お皿は、もう、どう目を凝らしても見えないところまで行ってしまった。ライトはしばらく皿の流された方向を震えながら見つめていたけれど、もうどうにもならないと諦めたのか、くるっと踵を返し橋の方へと歩いて行った。
数時間が経過し、お昼時になってもライトは橋の下で寝転がったままだった。ナラが話し掛けても「んー」と力ない返事をするだけだ。おじいさんの形見のお皿をなくしてしまったことが、よっぽどショックだったのだろう。少年からは溌溂さが消え、電池の切れた人形のように動かない。
「俺がショックなんわな」
どのくらい時間が経っただろう。太陽がそろそろ傾こうかと言う頃、ナラが側にいるのを思い出したかのように、ライトがポツリポツリと語り始めた。
ナラは読んでいた本を脇に置き、ライトの方に体を向けた。
「あの皿以外に、じいちゃんと繋がれるもんがないってことなんよ」
ライトの声は弱弱しい。今にも消えてしまいそうだ。あの元気で目を輝かせていた少年はどこに行ったのだろう。
「お皿なんて、ただのお皿よ」
自分から出た語気の荒い言葉に、ナラ自身も驚いた。だけど、うじうじ悩み続けるライトの姿にイライラしているのも事実だった。
「何やて」
ライトが起き上がってナラを睨んだ。
「お皿なんかなくってもおじいさんはちゃんと側にいるし、あなたを守ってくれるわ」
「勝手なことぬかすな。自分に何が分かるんや」
「分かるわ。私だって大切なものをたくさんなくして来たもの。だけど、どうやってもなくならないものってあるわよ」
「俺にはあの皿が一番大事だったんや。あれがあったら他はどうでもええねん。ずっと一緒に旅して来たんや」
ついにライトは泣き出してしまった。
泣きじゃくるライトは昨日までの余裕のある姿とはまるで別人で、まるっきり小さな男の子だった。
ナラは、まるで、お母さんになったような優しい気持ちで自然にライトを抱き締めた。
「何や、離せっ……」
ライトの動きが止まった。目をまん丸にしてナラを見つめて来る。
「何が……」
「話し掛けないでね。少しの間」
ライトを言葉と目で制止し、ナラは川の方を見た。そう言えば、海が近くにあったときは、波の音に気持ちを合わせて苦しい時間をやり過ごした。今は、川の流れに意識を集中してみることにした。
ライトの苦しみは、ナラもよく知っていた。大切なものを失う苦しみ。とっても悲しくて心にぽっかり穴が空くような痛みを伴う。
そう言えば、お父さんとお母さんが死んだとき、おばあちゃんが言ってたっけ。全てのものはいずれその形を変えるときが来る、それが自然なんだって。人はそれを受け入れなきゃいけないって。
川の流れを見つめながら、祖母の深く優しい声に耳を澄ませている間に、三分は通り過ぎていた。
「ナラ?」
ライトの顔が目の前にあった。心配そうにナラを見つめている。
「ライト」
ナラも少年の名を呼んだ。苦しみはすっかり消えていた。
「しばらく力は使わないつもりだったのに、結局使っちゃった」
ナラはペロっと舌を出して見せた。
「俺、昔じいちゃんに聞いたことある。人の苦しみをとれるすごい魔女の話」
興奮するライトに、ナラは力を使って旅して来たことを話した。
「すっげー。めっちゃかっこええな」
「それより、お皿のことはもういいの?」
ライトは思い出したように、川の方を見て、それから語り出した。
「ナラにギュッてされたとき、自分の中から皿へのこだわりが消えてしもたみたい。ほれに、ナラが言よったどうやってもなくならんもん、今なら分かる気いするわ」
「私も、ライトの苦しみを吸い取って、おばあちゃんの言葉を思い出したの」
ナラが祖母との思い出を話すのを、ライトは黙って聞いていた。
「これからね、大切なものを失いそうになったときは、今日の気持ちを思い出してね」
ナラがにっこり笑うと、ライトも同じようににっこり笑った。
「めしやー」
ライトが立ち上がり、ナラも続いて立ち上がった。頭上では満点の星空が、二人のことを見守っていた。
作者 小桐千歩
表紙絵 O_T_T(絵と図デザイン吉田)