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「力のことで悩んどるんやったら、俺、ダンに聞いといたるわ」
「ダン?」
「ダンはじいちゃんの弟子なんよ。じいちゃんと一緒に旅しとったこともあるんやで。ほれに、俺も昔、じいちゃんから人の苦しみをとれる魔女の話聞いたことあんねん。ダンならもっと詳しいかもしれん」
すっかり旅支度を終えたライトとナラは、川を背に向かい合っている。
「ライトがおじいさんから聞いたのは、どんな話だったの?」
「ん、旅の途中で人の苦しみをとれるすごい魔女に出会って、じいちゃんがその魔女に博打で負けた苦しみ、とってもらったって」
「……そう。その魔女と私の力が同じものか分からないけど、とにかくそのダンって人に聞いてみてくれる?」
ナラは素直にライトに頼むことにした。もしも、力のことを知っている人がいるなら、話を聞いてみたい。
「ほな、たまに俺の携帯に掛けてきいや。情報あったら教えるわ」
ライトの差し出した紙には、彼らしい力強い文字で、数字が記されていた。
「ありがとう。また、どこかで会えるわね」
「ああ、絶対に」
ナラは祖母との思い出を、ライトはおじいさんとの思い出を胸に、それぞれの道を歩き出した。一緒に旅をするという選択肢もあるのかもしれないが、それは何だからしくないし、お互い言い出さなかった。
ナラは一人になり、朝日に向かって、川沿いをゆっくりと前へ進んだ。ライトと別れたことで、また寂しさが出て来そうになるのをぐっとこらえ、歩みを一歩、また一歩と前へ進めた。この川はどこに続くのかしら。
山に囲まれて育ったナラにとって、海や川は未知のものだった。
しばらく歩き続けると、再び、ライトと出会ったときと同じような橋が遠くのほうに見えて来た。ナラはライトがそこにいる気がして、自然と急ぎ足になった。
いざ、橋の下に着いてみると、そこにいたのはライトではなく、彼とは似ても似つかない皺くちゃのおじいさんだった。老人はナラに気付いていない筈がないのに、川のほうを見つめたままだ。彼の周りには空き缶や、食べかけのパンのかけらが転がっていた。ライトからは旅人の匂いがしたが、彼からは浮浪者のそれが漂っていた。
「お嬢さんや」
通り過ぎようとしたナラの背中に、しわがれた声が当たった。ナラが振り向くと、いつの間にか老人がこちらを向いていた。
「ああ、お嬢さんや。わしはもう、ずっと人と話してないんじゃ」
彼は痩せた腕をナラのほうに伸ばしている。ナラは急にこの老人が可哀想に思えて来た。ライトとあまりにも対照的な老いた姿が、余計に同情を誘ったのかもしれない。
「おじいさん。こんにちは」
ナラは老人から少し離れたところに、腰を下ろした。ほっぺを差し出してキスをもらうのが礼儀だが、ナラはどうしてもその勇気が出なかった。
「ああ、こんにちは。旅をしとるんかね?」
「ええ、そうよ。おじいさんは」
「わしは、見ての通り、ただの老いぼれじゃ。何をすることもなく、ただ死が訪れるのを待っとるんじゃ」
ただ、死を待つ?どうせ待つなら、もっと楽しいことをしながら待てばいいのに。ナラは心の中で思ったが、とりあえずのところ、口には出さなかった。
「おじいさんは、どうしてこんなところにいるの?おうちは?」
「家は売り払ってしもうた。ほれ、ここにそのお金がある」
老人はボロボロのリュックの中から、丸く膨らんだ麻袋を取り出した。中を開けると、そこからナラが見たことのないような札束が現れた。
「わあ。すごいわ。このお金があれば、どこにでも行けるじゃない」
ナラは興奮で声が高くなった。
「わしは、どこに行く気もないわい。なあんもする気が起こらんの」
老人は、麻袋をリュックに戻し、ナラのほうに向き直った。
「どうして何もする気が起こらないの?」
「妻が死んでからずっとこうよ。死のうと思うても死に切れんで、こうやってただ、時が経つのを待っておる」
ナラにも似たような経験があった。両親や祖母が死んでしまったとき、何もする気が起こらなかった。それについこの間も、おじいさんの形見をなくしてしまったライトが、無気力に寝転がっていたではないか。人というのは、大切なものをなくすと何もする気が起きなくなるらしい。
「奥さんは、いつ亡くなったの?」
「一年前じゃ」
「一年?じゃあ、おじいさんは一年も、なあんにもする気が起きないの?」
「そうじゃ」
そんなことってあるのだろうか。ナラは、年に二回しか会えない両親の帰りを待ちわびていたとき、半年というのは何て長いのだろうと思っていた。一年と言えば、その二倍だ。この老人はそんな途轍もなく長い時間を、ずっと何もせずに過ごして来たのだろうか。
「おじいさん、それじゃいけないわ。そうだ、お金を持って、老人ホームに入るのよ。そうすればたくさんお友達もできて、楽しく過ごせるわ」
ナラは名案を思い付いたと思い、得意気に老人を見た。
「お嬢さんや、なあんにもする気が起きんというのは、言葉通り、なあんもする気にならんということよ」
そう言うと、老人はまた川の方を向いてしまった。
「私、少しお散歩して来るわ。私のリュックを見ていてね」
手持ち無沙汰になったナラは、リュックからお財布だけ取り出し、高く昇った太陽の光を浴びながら、人通りのありそうな方を目指して歩き始めた。
十分くらい歩くと、小さな商店が見えて来た。朝から歩き続け、お腹が空いていたナラは、ホットドッグと焼きバナナとトウモロコシ茶を買い、商店の前のベンチで食べることにした。
商店の中には小さなラジオがあって、ベンチに座ったナラの耳にも入って来た。
「最近はやる気をなくす人が増えており、社会的病気として専門家が調査を進める見通しで……」
「これだわ」
ナラが急に大きな声を出したので、店主が驚いてナラの方を見た。
「あ、ごめんなさい。あの、おばさん、この病気のこと知ってるかしら?」
「何か、人が感情をなくしたようになってしまうって話だけど、まだ治療法とかはないそうだよ」
「そう」
ナラはがっかりした。治療法がないのでは、あの老人を治すことはできない。
ラジオはまた別の話題に移り、ナラは興味をなくし、黙々と食べ続けた。帰りに老人へのお土産に、自分が食べたのと同じものを買った。
河原に戻ってみると、老人はさっきと同じ格好で佇んでいた。まるでここだけ時間が止まってしまったかのように、何一つ変化がなかった。そして、今度も、ナラの登場に老人が反応するまでに、えらく時間がかかった。
「おじいさん、ただいま」
ナラのほうから話し掛けると、老人はいかにも今、気が付いたというように顔を上げた。
「ああ、おかえり」
「これ、買って来たの。よかったら食べてね」
ナラが差し出すと、老人は興味なさげにチラッと袋の方を見て、また自分の世界へと帰って行った。
ナラはもう、ここを離れて、違う場所へ行ってしまいたくなった。無気力な老人と一緒にいると、こちらまで元気がなくなりそうだ。
「じゃあ、おじいさん、私、そろそろ行かなきゃ。その、元気でね」
ナラはリュックを背負い、その場を離れようとした。だけど、何かが、ナラの足を止めさせた。
ナラは、気が付いていた。自分自身の嫌な心のことに。ナラは老人にキスの挨拶はおろか、名前すら尋ねていないのだ。ナラの中に、浮浪者のような老人を見下す気持ちがあるのだ。そのことが、ナラ自身を苦しめていた。
ナラが振り向くと、老人はさっきと変わらない格好で座っていた。ナラは老人の前に回った。そして大きな声で、
「私はナラっていうの。おじいさんは?」
と尋ねた。老人がナラの目を見た。よく見ると彼は、きれいな水色の目をしていた。
「マイクじゃ」
「マイク、どうぞ、よろしく」
ナラはほっぺを差し出した。老人は戸惑ったように一瞬躊躇したが、ナラのほっぺにそっとキスをした。
「マイク、私、あなたのことを助けたいの。元気になってほしいのよ。だってこの世界には素敵なことがたくさんあるんだもの」
マイクはナラの方を見ながらぼそぼそと答えた。
「無理じゃよ。わしには、もう気力が残っとらん」
「あら、そんなことないわ。だって、今日初めて会ったとき、私のことを呼び止めたじゃない。あのとき、私と話したいと思ったんでしょう。何かが変わると思ったんでしょう」
マイクは黙っている。ナラは、彼に一歩近づいた。
「マイクがあのとき勇気を出したから、今、私はここにいるのよ」
そう言うと、ナラはマイクをそっと抱き締めた。マイクがビクッと体を震わせたのを感じても、ナラは彼から離れず、意識を集中させた。
マイクから離れたときには、彼の無気力はすっかりナラに移っていた。マイクの驚いた顔を前に、ナラはどっぷりと無気力の中に落ちて行った。
苦しい。やる気が出ないというのは、こんなにも苦しいのだ。ナラは無理矢理、これから出会うだろう楽しいことを考えてみた。素敵な人に、きれいな景色に、おいしい食べもの。しかし、どの想像も苦しみを増やすだけで、ちっとも楽しくならなかった。
ナラはさっきまでマイクがしていたのと同じように、川を眺めた。川の流れを見ていると、少しだけ胸の苦しみが和らぐ気がした。
無気力という苦しみは、たったの三分間だけでも充分に辛かった。マイクは一年もの間、この苦しみと一緒に過ごして来たのだ。
「ナラ」
マイクがナラの名を呼んだ。さっきと同じ人物とは思えないほど、目が輝き、体から生命力が溢れている。
「なあに」
ナラのほうも、三分が経過し、すっかり気力を取り戻し、いつもの元気なナラに戻っていた。
「君は、ああ、何という。わしに元気を、やる気を分けてくれたのか」
「違うわ。マイクの苦しみを吸い取って消しちゃったのよ。そしたら、マイクから自然とやる気が出て来たんだわ」
ナラは当たり前のように口にした。
「何と。わしは何十年と生きて来たが、そんな力には初めて出会ったよ」
うふふ、とナラは嬉しくてつい笑顔がこぼれてしまった。やっぱり人の役に立つのは嬉しい。それこそ、一番素敵なことなのだ。
「ああ、わしは急に腹ペコになったみたいじゃ。これをもらってもいいかの?」
マイクはナラの買ってきた袋を取り上げた。
「もちろんよ。全部食べて」
ホットドッグを頬張るマイクは、もうみすぼらしい老人ではなかった。
「マイク、これからどうするの?」
食べる手を止め、マイクが答えた。
「ああ、ナラに抱き締められたとき、すぐに頭に浮かんだことがあるのだ。それは妻と一緒に見ようと約束していた景色を、見に行くことじゃ。その約束を果たすまで、わしは死んでも死にきれん」
そう言い終えると、マイクはまた威勢よく食べ始めた。
「素敵な夢を見つけたのね。じゃあ、私はそろそろ行くわ」
ナラが立ち上がると、マイクが制止した。
「ナラ、お礼にこれを少し持って行っておくれ」
マイクが取り出したのは、お札の詰まった麻袋だった。
「あら、私にお金は必要ないわ。私にはこの素晴らしい力があるもの」
そう言うと、ナラはもう一度マイクにハグして、その場を離れた。太陽は少し傾いたものの、まだ上のほうにあった。ナラは、また、歩き始めた。
作者 小桐千歩
表紙絵 O_T_T(絵と図デザイン吉田)