10
モナカが教えてくれた道を通って、ナラは商店街を目指した。途中、これもモナカが教えてくれた通り、見事なラベンダー畑の前を通りかかった。紫に咲き乱れる可愛い花びらから、濃厚な香りが漂って来る。
「わあ、綺麗。満開だわ。ラベンダーって今の時期なのかしら」
四季のない街に住んでいたナラは、何月にどんな花が咲くかなどあまり詳しくなかった。
ラベンダー畑を過ぎて、しばらく歩くと、やっと、人通りの多い道に出た。さらに歩くと、モナカの言っていた商店街に辿り着いた。
八百屋、肉屋、服屋、靴屋、小さなスーパー……。それに、サトウキビジュースの屋台、おやきの屋台、チキンスープの屋台……。見ているだけで楽しい素敵なお店が所狭しと並んでいる。ナラは一目でこの商店街が好きになった。
肉屋の前では、背の高いおじさんが鶏を丸焼きにしていて、香ばしい香りに自然と足が止まった。
「ラベンダーも素敵だけど、こっちもいいわね」
ナラは、チキンを一つ買うことにした。
「おじさん、焼けてるのある?」
「いらっしゃい。こっちにあるよ、足でいいかい?」
「ええ、ありがとう」
ナラは大きなチキンの足を受け取って、お金を払った。
「お姉ちゃん、旅人かい?羨ましいね。俺も自由に羽ばたいてみてえなあ、なんてな」
「あら、なら、おじさんも旅に出たらいいわ。この国は旅人に、とっても優しいもの」
ナラは当たり前のように口にした。
「そう簡単には行かねえよ。この店があるし、家には年取ったお袋がいるし、それに」
「それに?」
「もう年だしな」
寂しそうにつぶやく彼の顔を見て、ナラも寂しくなった。
チキンを片手に、ナラは商店街を歩いた。おいしくって夢中でかぶりついた。だけど、食べながら思い出されるのは、さっきのおじさんの表情だった。
旅に出たいなら出たらいい、とナラは思う。だけど、現実はそんなに簡単じゃないらしい。考えてみれば、家族がいないからナラは誰にも反対されることなく、自由に旅ができるのかもしれなかった。もし、両親や祖母が生きていたら、ナラが旅人になることに賛成しただろうか。
ふと、目の前を、見知った顔が通り過ぎて行った。
「モナカっ」
ナラが声を上げると、ふわふわのロングヘアが振り向いた。彼女は素敵なワンピースを身に付け、何と、博物館のお兄さんと手を繋いで歩いていた。
「ナラ、もしかしたらあなたに会えるかもって思ってたのよ」
「モナカ、昨日の今日とは思えない急展開ね」
モナカは恥ずかしくなったのか、頬を赤らめた。隣の彼は、ニコニコしている。
モナカがナラに近付き、耳元でそっと囁いた。
「あのね、私ってもう三十歳でしょ?恥ずかしがってる年齢じゃないし、早くゴールインしたいのよ」
「あら、何歳で結婚したっていい筈よ。恋も結婚も自由だもの」
「だけど女は子ども産むリミットもあるし、ね。ちょっとは焦らないといけない年なのよ。若すぎるあなたには分からないかもしれないけど」
ナラは少し、嫌な気分になった。大人はどうしてそんなに年齢のことを気にするのだろう。ううん、子どもでも、同じだわ。
ナラは、学校に通っていたときの友達、アンのことを思い出した。彼女は何故かいつも、焦っていた。もう十歳だから大人らしくしなきゃとか、早く将来のことを考えなきゃとか。
ナラは、肉屋のおじさんの寂しそうな顔を思い出した。
「もう年だし」
それは、希望をしぼめる嫌な言葉だと思った。
「ナラ、よかったら今日も泊まって行っていいのよ」
モナカは何だか楽しそうだ。
「ありがとう、モナカ。でも、いいの」
「そう?でも、気が変わったらいらっしゃいね。じゃあ、私達、そろそろ行くわ」
彼としっかり手を繋ぎ、歩いて行くモナカの後ろ姿は、出会ったときとは似ても似つかなかった。自信を取り戻した彼女が、彼と幸せになることを、ナラは心の中でそっと祈った。
モナカと別れたナラの足は、自然とさっきの肉屋さんの方に向かっていた。
おせっかいでも、構わない。ナラは、悩んでいる人を放っておけなかった。
「おや、お姉ちゃん、食べ終わったのかい?骨はもらうよ」
「ええ、ありがとう」
おじさんは焼けた肉を切り分けている。分厚い手のひらが職人を思わせる。
「おじさん、ちょっとお話いい?」
「ああ、いいよ。旅の話を聞かせてくれるのかい?」
「それもいいけど、おじさんの話をしたいの」
「俺の?」
おじさんが手の動きを止めた。
「まず、お名前教えてくれる?」
「なんだ、占いかい?俺は、ディエゴってんだ」
ディエゴが、かがんでナラのほうにツンツン髭のほっぺたを差し出した。
ナラはそこに挨拶のキスをした。
「私はナラ。占いって訳じゃないんだけど、おじさんの問題を解決したいの」
「俺の問題?」
「ほら、旅に出たいって言ってたじゃない」
ディエゴが、ああ、という風に頷いた。
「解決するったって、言った通り、俺にはこの店があるし、お袋だっている」
「お母さんは、病気なの?」
「いんや、そういう訳じゃねえけど」
ディエゴが口をもごもごと動かした。ナラは、続けた。
「お母さんが元気なら、少しくらい、家を空けたって平気よ。それに、お店だって、ディエゴが旅に出てる間、誰かに任せたらいいんだもの」
「いやいや、俺はこの年まで旅に出たことねえし、今からだなんて遅すぎるよ」
「そんなことないわ。友達のライトって子のおじいさんは、生涯冒険家だったのよ」
ナラはライトの顔を思い出しながら話した。
「そりゃ、旅人の才能があったんだろうよ。俺は、肉のことしかできねえし……」
「ディエゴって言い訳ばかりね」
ナラが呆れたように、彼を見た。きっと、彼が旅に出られないのは、お店があるからでも、年老いたお母さんがいるからでもなく、一歩踏み出す勇気がないだけなのだ。
「ディエゴ、私、あなたに勇気を出してほしいのよ。だから、やるわ」
「やるって、何を……」
ナラは彼に近付き、大きな体に腕を回し、意識を集中した。すると、ナラの中にディエゴの感情がシューっと入って来た。
辛い三分間をやり過ごすため、ナラは肉屋の側の路地に腰掛けた。ディエゴが追い掛けて来て心配そうに覗き込むのを、ナラは手で制止した。
ナラの中を巡っているのは、恐怖に不安に諦め、劣等感……。少し、誰かのときと似ている。
そうだ、これはジョウの感情に似ているんだわ。何かを諦めるときの嫌な気持ち。あのときは、確か、大好きな彼女。今は、旅に出たいという夢。だけど、違うのは、今回は大きな恐怖があるってこと。ジョウのときよりずっと大きな恐怖。新しいことに挑戦するのは、こんなにも怖いことなのかしら。
ナラは考え続けた。考えている間に、三分が過ぎてくれるのを待った。
ジョウは確か、お金がないことで悩んでいた。お金がないから彼女を幸せにできないって。ディエゴは、もう若くないってことで悩んでる。大人は、お金とか年齢のことで悩む運命なのかしら。
三分間ずっと考えていたせいか、ナラの中からディエゴの感情が消えた後も、ナラはぐったりしていた。だけど力を振り絞って顔を上げ、話し掛けた。
「私、ディエゴの感情を吸い取って消しちゃったの。気分がよくなったでしょ?」
ナラの言葉に、ディエゴが頷いた。
「ああ、いや、驚いたな、こりゃ。俺はすっかり魔法にかかっちまったみたいだ」
「魔法?」
「ああ。なんていうか、俺ん中から、恐れる気持ちが消えたみてえだ」
それを聞いたナラは、嬉しくなって、やっと笑うことができた。
「もう、旅に出ることが怖くなくなった?」
「ああ。今なら行けそうな気がするよ。ああ、ナラ、君は大丈夫かい?」
ナラは、ゆっくりと立ち上がった。
「ねえ、今日うちに泊めてもらえない?旅の話を聞かせてあげる。お母様にも挨拶したいわ」
ディエゴの家を予約したナラは、彼の仕事が終わるまで、また商店街をぶらぶらすることにした。雑踏の中で、ナラはまた考えに耽った。大人になる苦しみについて、思考が、止まらなくなってしまったのだ。
11につづく
作者 小桐千歩
表紙絵 O_T_T(絵と図デザイン吉田)