『苦しみを吸い取る少女、ナラ10』公開しました。今、苦しい人、ぜひ読んでみてください。
ナラの後ろ姿の絵

この国では電話を持ち歩く人もいるし持ち歩かない人もいる。ナラは持ち歩いていない。だから、エマと別れたとき、彼女の家の住所と電話番号を書いたメモをもらった。これがあればいつでもまたエマと連絡を取ることができる。そう思うと心強さを感じた。

エマの家を出てから、ナラは、ひたすら海沿いを歩き続けていた。バスに乗ることも考えたけれど、ナラはまだ海の側を離れたくなかった。

もうどれくらい歩いたのだろう。海は相変わらず穏やかで、ナラに絶えず笑い掛けてくれるようだった。

歩きながら、ナラはエマ親子のことを考えた。エマから話を聞いたとき、暴力を振るわれているエマのことをすごく可哀想だと思った。エマのお父さんは一体どんな悪人なんだろうと考えた。だけど、エマのお父さんの感情を吸い取ってみると、彼もすごく苦しんでいることが分かった。

エマのお父さんはどうしてあんなに大きな苦しみを抱えていたんだろう。エマは大丈夫かしら。お父さんと上手くやっていけるかしら。

太陽が海に近付き、空が群青色に染まり始めた頃、小さな船がたくさん停まっている港に辿り着いた。

ナラはしばらくの間、カラフルで可愛い船の列を眺めた。もしも乗るとしたらあの赤いのがいいわと考えていると、まさにその赤い船から筋肉のたくましい、真っ黒に日焼けしたお兄さんが顔を出した。

船の中に人がいると思わなかったナラは、びっくりして後ずさってしまった。

「あれ、君、どこの子?」

お兄さんがナラに話し掛けて来た。

「あ、あの私、旅をしてて、それで……」

「ああ、泊まるところ?俺んちいいよ。ついこないだも少年が来て泊めたばっかりなんだ。おふくろが張り切っちゃって、めし作りすぎるんだよ」

お兄さんは、はははと大口を開けて笑った。お兄さんの快活な調子に巻き込まれ、ナラの緊張はすぐに解れてしまった。

「私、ナラっていうの。お兄さんは?」

「俺はジョウ。よろしくな」

ジョウがかがんでナラの頬っぺたにチュッとキスをした。ナラも少し背伸びしてジョウにキスを返した。

「ジョウは、船の中で何をしていたの?」

ナラが問い掛けた。

「ああ、メンテナンスだよ。明日は休みだから、朝から釣りに出るんだ」

ジョウの言葉に、ナラはつい前のめりになってしまった。ナラは一度でいいから海の上を走ってみたいと思っていたのだ。

「ジョウ、私も一緒に行っちゃ駄目?」

 ナラはジョウをじっと見た。懇願するような目をしていたかもしれない。

「ははは。何だ、船に乗りたいのか。勿論いいさ」

ナラは嬉しくて跳び上がりそうだった。

「私、明日、あの赤い船に乗れるのね。何だか夢みたいだわ」

夜、ナラは案内されたこじんまりとした部屋で布団に潜り目をつむっていた。早く眠らないといけないのに、明日のことを考えるとワクワクしてなかなか寝付けなかった。同時に、ナラは旅の目的のことを考えてもいた。ジョウは一見、明るくて悩みなどなさそうに見える。だけど人は見かけによらないことをナラは学んでいた。

明日、ジョウに聞いてみよう。ナラはそう心に決めて、漸く眠りに就くことができた。

 

「海の上って気持ちがいいのね」

ナラは初めてに関わらず、船酔いをすることもなく、海上を漂う揺れに身を任せていた。

「今日はもう起きて来ないのかと思ったぜ」

ジョウがからかうようにナラを見た。クーラーボックスの上に座り、手には釣竿が握られている。

「あら、私、ちょっと朝が苦手なだけよ。それに、昨日は楽しみでなかなか寝られなかったの」

朝早く、ナラはジョウの呼ぶ声によって起こされた。歩き疲れた体はまだ眠りを欲していたけれど、船に乗れるのだと思うと起き上がることができた。ジョウのお母さんが用意してくれていた質素だがたっぷりとした朝食をいただき、サンドウィッチのお弁当を持って、乗船。初体験の船を満喫しているのだ。

船の上があまりにも気持ちいいから、いっそ、このまま旅の目的のことは忘れてしまおうかとも思った。それにジョウはやっぱり見るからに悩みなどなさそうだ。明るくて前向きで、楽しい人。一緒にいるとこっちまで楽しくなって来る。

「なあ」

ジョウが急に改まったように低い声を出した。

「なーに?」

ナラは海から目を離し、ジョウのほうを見た。

「お前って、将来の夢とかあんの?」

「どうしたの?いきなり」

「いいから、答えろって」

ジョウの声は何だか真剣だ。

「えっと、まだ分からないけど、何か人の役に立てる仕事がしたいと思っているの」

「ふーん。仕事なんて大概、人のためにやるんだと思うけどな」

ジョウは何が言いたいのだろう。ナラは言葉の続きを待った。向こうのほうからキーキーと鳥の鳴く声が聞こえて来る。

「俺、婚約者がいるんだ」

ジョウの口から飛び出た「婚約者」という言葉が彼のキャラクターとそぐわない気がして、笑ってしまいそうになるのをナラはグッとこらえた。

「素敵じゃない。結婚はいつ?」

「やめようかと思ってる」

「やめる?」

ジョウの目は真っ直ぐ海に向けられていたけれど、もっと遠くの何かを見ているようにも見えた。

ナラははっとした。ジョウが今、自分に悩みを打ち明けているのだと気が付いたのだ。今回はうやむやにしてしまおうかと思っていた旅の目的が、否応なしにナラの頭に浮かんで来た。どうやらナラはこの運命から逃げられないようだ。

「彼女は今、街でも一番か二番くらいの金持ちに結婚を申し込まれてるんだ。俺、金ないからさ」

ジョウは街の市場いちばで働いていると聞いている。毎朝、漁師から受け取った新鮮な魚を売っているのだ。

「この国は何をするのも自由だ。それでも、金がねえとできないことってたくさんあるよ」

「ジョウはお金があったら何をしたいの?」

「俺は別にねえよ。今のままで幸せだかんな。だけど、俺のせいで彼女に惨めな思いさせたくねえよ」

ナラはジョウの言葉を考えた。愛する彼女を幸せにするのにそんなにお金が必要だろうか。愛さえあれば、なんて考えてしまう自分はまだまだ子どもなのだろうか。

ナラ自身は、両親と祖母の残してくれたいくらかのお金を持っている。だけどそんなお金なくっても、ナラは全然へいっちゃらな気がしていた。

ナラはジョウの顔をじっと見た。

「ジョウ、今、苦しい?」

「あ?」

「私、ジョウの苦しいの、取ってあげられるわ」

ジョウの目が一瞬きょとんと止まったけど、すぐに細くなって笑い出した。

「何だ、おまじないか?やってみろよ」

ジョウが釣り竿から手を離し、ナラの方に近寄って来た。顔はまだ笑っている。

ナラはふーっと一度深呼吸して、気持ちを整えた。エマのときみたいに上手く行く保証はどこにもない。それに、大人の苦しみを吸い取るのはやっぱり怖かった。ケンのときはエマを助けなきゃと思い、勢いでやってしまったところがあった。今は、何だか少し緊張しているみたいだ。

「三分間、私に話し掛けないでね」

そう言うと、ナラはえいっとジョウに抱き着き、意識を集中させた。すると、ジョウの苦しみがシューっとナラの中に入って来た。

悔しさ、もどかしさ、恐怖、不安、諦め。ナラが言葉にできるものだけでもこんなにたくさんの感情が渦巻いていた。人というのは、一つの気持ちだけを持って生きているのではないのだ。当たり前のようなこの事実を、ナラは今、全身で感じていた。

中でも、ジョウから吸い取った「諦め」という感情がナラを苦しめた。ナラはこの気持ちがすごく嫌いだと思った。

「おい?」

ジョウが不思議そうな表情で話し掛けて来るのを手で制止して、ナラは波の動きに気持ちを合わせた。できるだけ苦しみのことを考えないようにした。ザプンザプンと揺れるのに身を任せていると、体ごと海の中に溶けてしまいそうな気がして来る。

三分が過ぎたのだろう。ナラの中からジョウの苦しみがスーッと抜けて行った。ナラは心が軽く楽になったことに、安心した。

「どう?苦しくなくなったでしょ?」

ナラはふふんという笑顔をジョウに向けた。体は疲れていたけれど、ジョウを驚かせたことが嬉しかった。

「お前、ほんとに人の苦しみを取れるのか」

うふふとナラは笑った。何だかとても嬉しいのだ。

「私の特技なの。どう?見直したでしょ」

このあと、ジョウはナラに色々聞きたがったが、ナラは少しだけしか話さなかった。ナラには話したくないことがたくさんあって、話したくなるまで話さないことに決めているのだ。

「その、吸い取った苦しみは三分で消えるんだな?」

「ええ、そうよ」

「絶対だな?」

ジョウは念を押したあと、ナラに一つ、お願い事をして来た。ナラは、そのお願い事を聞く約束をした。

「私、何だかすごく気持ちがいいわ。ジョウ、今、どんな気持ち?」

「なんつーか、不安とかが全部消えて、俺、今なら彼女を幸せにできる気がするよ」

そのとき、ジョウの釣り竿がビビンと揺れるのがナラの目に入って来た。

「ジョウ、魚が掛かったわ」

「よっしゃ」

威勢のいい掛け声とともに、ジョウが竿を持ち上げるのを、ナラも一緒に手伝った。

いつの間にか、高く昇った太陽が、ナラの顔を明るく照らしていた。

4につづく

 

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