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ナラは布団の中、船の上でジョウの言ったことを考えていた。
「貧乏人の俺と金持ちとの間で一番苦しんでいるのは彼女なんだ。それに彼女は別にその金持ちのこと嫌いって訳でもないしな」
大好きでお金のない人と、別に好きでも嫌いでもないけどお金持ちの人。ナラなら迷いなく大好きな人を選ぶと思う。だって、大好きな人と一緒にいることより幸せなことってないと思うから。大人はこんな風には考えないのだろうか。
瞼が重たくなって来た。さすがに今日は疲れたみたいだ。明日はうんと朝寝坊しよう。ナラはそう心に決めて眠りに就いた。
ジョウもエレサも、ナラに気を遣って起こさないでいてくれたようだ。目が覚めたときには、太陽がうんと高くからナラを見下ろしていた。
部屋を出てダイニングに行くと、ジョウがいたずらっぽくナラを見て笑った。
「よお。やっとお目覚めだな」
ナラは寝すぎたことが恥ずかしかったけれど、それよりも元気の漲る体が嬉しかった。テーブルに並んでいる愛情のこもった料理もナラの気持ちを高揚させた。
「わあ。今日もおいしそう。エレサは?」
「おふくろは飯作って、出掛けたよ。今日は仲間との集まりがあるんだと」
喋りながら、ジョウはナラのためにチーズ入りのパンを切り分け、ジャガイモのスープを注いでくれた。お皿から伝わって来る香りを胸いっぱいに吸い込み、ナラは幸せだった。
「食ったら、昨日の約束、な」
ジョウが少し言いにくそうにナラを見た。
「ええ、任せといて」
魚の煮物をつつきながら、ナラはジョウに頷いた。その言葉に安心したように、ジョウもパンをかじった。
「ねえ、ジョウ」
「うん?」
「最終的に彼女がどっちを選ぶかは分からないわ」
「ああ、分かってる。俺は彼女の選択を尊重するよ」
ジョウの顔には清々しさのようなものが漂っていた。昨日ナラが苦しみを吸い取ったおかげで、ジョウの心は落ち着いているように見えた。
「俺は、フェアでいたんだ。彼女にも穏やかな心の状態で決めて欲しいんだよ」
食事を終え一服すると、ナラはジョウに連れられて、小さな公園に向かった。そこでジョウの婚約者リリに会うのだ。
海の側を、ジョウの大きな背中に導かれてナラは歩いた。昨日あの大海原の上を走り、さらに大人の男の苦しみを解決したことが、ナラには誇らしかった。
健康そうに日焼けした人々が談笑しながら通り過ぎて行く。木陰に輪になって座り、石を使ったゲームに興じている人達もいる。ナラはそんな人々一人一人にも悩みや、苦しみがあるのだと思いを巡らせた。
公園に辿り着くと、既にリリは来ていて、ジョウを見つけるとベンチから腰を上げ、片手を上げて合図した。
リリは背が高くスタイルも抜群で、雑誌のモデルと言っても通用しそうだった。
「あなたがナラ。とっても可愛いわ」
リリがナラにキスの挨拶をし、ナラも返した。
「昨日、ジョウから話を聞いて、まだ信じられないんだけど、すごい力があるんだって?」
「ううん、それほどでもないんだけど」
謙遜しつつも、ナラは嬉しかった。自尊心が満たされて行くのを感じた。
「んじゃ、俺は先帰ってるわ」
ジョウは二人を残し、来た方向へと戻って行った。
小さな公園内では、子ども達が何やらナラの知らないゲームをして遊んでいた。ナラとリリはベンチに並んで座り、しばしの間、子ども達の元気な様子を眺めた。ジョウがいなくなったことで、緊張感が二人の間を漂った。リリも黙ってしまった。元々そんなに口数の多い方ではないのかもしれない。
「あの」
先に口を開いたのはナラだった。
「ええ」
「ジョウから聞いたんだけど、リリはジョウとの結婚を悩んでいるって」
リリが戸惑ったような顔をした。かなり年下のナラに、こんな相談をするのを躊躇っているのかもしれない。
「ええ、そうね。こんなこと、あなたに話していいのか分からないけど」
「私、絶対秘密は守るわ」
ナラが固く約束すると、リリはポツリポツリと自分の気持ちを話し出した。
「私とジョウは愛し合っているわ。同じ街で生まれ育ち、平凡だけど楽しく暮らして来た。私は幸せよ」
リリが一息、間を置いた。ナラは真剣に聞き入った。
「だけどね、タイジが、タイジっていう街ではちょっとした有名人がいるんだけど、彼に気持ちを打ち明けられたの。ずっと私のことを想っていたって」
子ども達の無邪気で生命力に溢れた声が、そちこちに飛び交っている。
「ジョウに聞いたかもしれないけど、タイジは街一と言っていいほどのお金持ちなの。私、彼に告白されておかしくなっちゃったのよ」
「おかしくなった?」
ナラは身を乗り出した。リリは俯き、また息を漏らした。
「私、これまでも自分は幸せだと思っていたの。本当よ。だけど、何と言えばいいかしら、私達貧乏人の知らないもっと素晴らしい世界があるんじゃないかと思ってしまったの」
リリが続ける。
「タイジはね、私が申し込みを受けたら一緒に都会で暮らそうって言うの。きっともっと豪華できらびやかな生活が待っているわ」
リリが顔を上げてナラを見た。すがるような目をしている。
ここよりももっと素晴らしい世界がある。努力していればいつかもっといい世界に辿り着ける。そう考えることはナラにもあった。
いや、そう考えて旅をしているのかもしれなかった。
だけど素晴らしい世界とは一体何だろう。それは愛する人がいる世界ではないのだろうか。ナラの考えは、やっぱりここに行き着いてしまう。
「あの、私、まだよく分からないけれど、きっともっと具体的に考えるといいと思うわ」
「具体的?」
リリが問い返す。
「素晴らしい世界は具体的にどんなところだろうって考えるの。何があれば私は幸せかなって考えるの」
ナラは一生懸命自分の気持ちを言葉にした。
だけど、リリにはなかなか届かないようだった。
「駄目よ。私、お金持ちの生活はどんなのだろうってそのことばかり考えてしまって……」
ついにリリは泣き出してしまった。胸に溜めていた苦しみが、涙と一緒に溢れ出て来るようだった。
「リリ、大丈夫よ。すぐ楽になるわ」
大人の女性が泣き乱れる姿を見たナラは、いとも自然にリリの体を抱き締めていた。そのまま意識を集中させ、リリの苦しみを吸い取った。
リリから体を離したナラは、彼女の泣き声が止むのを感じたが、自分に入って来た苦しみのせいでそれどころではなかった。
損したくない。お得に人生を歩んで行きたい。間違えたくない。いいものが欲しい。もっといいものが欲しい。リリを苦しめていた気持ちが言葉になって浮かび上がって来た。
苦しみをなるべく遠ざけるため、ナラは耳を澄ませた。ここから海の音は聞こえなかったけれど、代わりに子ども達の笑い声が聞こえた。笑い声は音楽のようにナラの耳に届いて来た。
三分間は今回も永遠のように長くて、ナラはまたあの恐怖、この苦しみが終わらなかったらどうしようという想いに囚われた。
だけど、終わりは必ずやって来て、三分が経ったとき、ナラの中から苦しみがスーッと抜けて行った。そうなるともうさっきまで何で苦しんでいたのか分からないくらいに、ナラの心は元気になった。
「上手く行ったわ」
ナラの様子をずっと見ていたリリが、驚きの表情を浮かべていた。
「ジョウから聞いてはいたけど、本当の本当だったのね」
リリはナラをギュッと抱き締めた。
「私、今、葛藤がなくなって、すごく穏やかで、自分にとっての幸せが何かってことが自然に考えられるの」
ナラは体を離してリリを見た。
「よかったわ。リリはたぶん人生の損とか得とかばかり考えて、幸せを見失っていたのよ」
ナラは嬉しかった。目の前の人の力になれたことが。それに、大人の問題を解決できたことで益々自信が湧いて来るようだった。
「私、ジョウに今の気持ちを伝えるわ。ナラも一緒に来てくれる?」
「ええ」
二人は並んで、ジョウの待つ小さな家へと歩き始めた。子ども達の笑い声がまだ、後ろの方で響いていた。
作者 小桐千歩
表紙絵 O_T_T(絵と図デザイン吉田)