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ナラとエマが抱き合う絵

5

ジョウの家を出発し、バスは海沿いを走っていた。車内は二列ずつシートが並んでおり、ナラの隣は空席だ。

これまでの快晴が嘘のように、空からは大粒の雨が降り注いでいた。まだ昼なのに外は暗く、しかもナラは何だか寒くて、一人震えながら配布されたブランケットに身を包んでいた。

ナラはこの長距離バスで、海の側を離れようと決めていた。船にも乗ったし、もう充分、海を満喫したと思ったからだ。

そもそもナラが海を一番始めの目的地に選んだのは、祖母からたびたび話を聞かされていたからだった。

「海には色んな表情がある。人間と一緒」

祖母はいつもこう言っていた。窓の外で荒れる海を見ながら、ナラは初めて祖母の言葉の意味を感じ取っていた。

人間にも波があって、嬉しくなったり悲しくなったり、ユラユラ揺れているんだわ。一体、どうしてそんな風になっているのかしら。苦しい感情なんて、元からなければいいのに。

旅に出てまだいくばくも経っていないのに、ナラはもうずっと自分が旅人だったような気がしていた。

バスが停留所に停まり、しばらくすると、ナラの隣に人が乗り込んで来た。帽子を深くかぶり、はおった薄手のコートが少し湿っている。

「おや、お嬢さん震えてるね。これをあげよう」

低く深みのある声に話し掛けられて、ナラは飛び上がりそうになった。その声色が祖母にそっくりだったからだ。

よく覗き込んでみると、祖母とは全然顔の違う、笑顔が皺くちゃのおばあさんだった。

「おばあちゃん、ありがとう。いただくわ」

ナラは素直に両手を差し出し、おばあさんから魔法瓶を受け取った。蓋に中身を注ぐと、まるで今沸かしたばかりというように、ほかほかの湯気がナラの顔を撫でた。一口飲むと、足の先から頭のてっぺんまで温もりがじんわりと行き渡った。

「おばあちゃん、このチョコラテ、すごいわ。私、一気に元気が湧いて来たみたい」

「ほほほほ。体が冷えていたからだろう。外は大雨だからね」

おばあさんは、マリアと名乗った。その名がたまたま祖母と同じ名前だったことで、ナラは益々親近感を覚えた。帽子を取ったマリアの、ちっとも白髪の混じっていない見事な赤毛もナラを惹き付けた。

ナラは旅のことをマリアに話した。話してみると、誰かに聞いて欲しかったのだと気が付いた。マリアはナラの話を頷きながら、楽しそうに聞いていた。

「ふんふん。それで、リリは、結局そのジョウって男を選んだのかい?」

「ええ、そうよ。リリはジョウと一緒にいることが何よりの幸せだって気付いたの」

ナラはリリがジョウに自分の気持ちを打ち明けたときのことを思い出していた。リリとジョウが心からお互いを求め合うのを目の当たりにし、自分がこの瞬間を生み出したのだと思うと、鼻高々だった。

「それじゃ、ナラの魔法がよく効いたんだね」

「魔法じゃないわ。私、本当に人の苦しみを取れるのよ」

ナラがいくら言っても、マリアは信じていないみたいだった。ほほほほほと独特の笑い方で、ナラの話をまるでおとぎ話か何かのように考えているようだった。ナラにはそれが悔しかった。自分がすごいということを認めてもらいたい、いつの間にか、ナラはそんな気持ちでいっぱいになっていた。

「じゃあ、こうしましょ。私、今からマリアの苦しみを吸い取って消しちゃうわ」

頼まれてもいないのに、ナラは力を使うことを申し出た。祖母に絶対使ってはいけないと言われていた筈なのに、数回の成功体験で、ナラの中から力を使う怖さが薄らいでいた。

「ほほほ。ええわい。やってみんさい。私がどんなことで悩んでいるかは敢えて教えないよ。さあ、やってみんさい」

「三分間、私に話し掛けないでね」

ナラはこう言い残すと、ずっと抱き抱えるように持っていた魔法瓶を脇に置き、マリアを抱き締めた。そして、意識をギュッと集中させた。今回もちゃんと、ナラの力は作動し、マリアの苦しみがナラの中にシューっと入って来た。

マリアから体を離したナラは、彼女の表情を見ようと思ったけれど、やっぱりそれどころではなかった。マリアから吸い取った苦しみはきちんとナラの中を渦巻き、無視できるようなものではなかった。

寂しい。この感情はナラもよく知っていた。だけどナラが知っているそれよりも、もっと大きくて深いみたいだ。底の見えない暗い穴を覗き込んでいるような嫌な気持ち。この明るくて優しいおばあさんが、こんなに大きな寂しさを抱えているなんて。

ナラは自分も天涯孤独の身になったのだと思っていたが、マリアの孤独はナラの比ではなかった。

寂しいというのは、何て嫌な感情なんだろう。この気持ちが嫌で、きっと人は人を求めるんだわ。

他にも後悔や後ろめたさなどが小さく円を描きながらナラの中を巡っていた。

三分は、まだだろうか?自分の力を認めさせたいという気持ちはすっかり消え、ナラはどっぷりと孤独の闇に浸かっていた。

雨音が、他の乗客の話声が、遠くの方で響いていた。窓の外に目を向けると、雨粒が相変わらず、波を激しく打ち付けている。

バスが大きく揺れた。ナラの体が傾き、同じようにバランスを崩したマリアを支えようとしたところで、ナラの中からマリアの苦しみがスーッと抜けて行った。

「マリア、大丈夫?」

マリアを抱き起こすと、彼女はナラの頬を両手で挟み、目をじっと見つめて来た。

「ナラ、お前こそ大丈夫なのかい?お前は、本物だね。本当にわしの感情を取ってもうた」

ナラはこっくりと頷いた。マリアは顔中の皺を寄せて、驚きを表現していた。

「マリア、そんなに驚かないで。私に苦しいのを吸い取られてどんな気持ちになった?」

「何と言えばいいじゃろう。このまま死んでもええような気持ちになった」

マリアの答えに、ナラはびっくり仰天してしまった。

「嫌だわ。マリア、死ぬなんて言わないで」

「ほほほほ。冗談じゃ。冗談でも言いたくなるええ気持ちということじゃ」

マリアが笑って、ナラは漸く、安心できた。マリアから吸い取った感情が消えてくれたお陰で、ナラはもう孤独ではなかったし、マリアもその筈だった。

「マリアは結婚していないのね?」

ナラは気になったことを聞いてみた。

「うんにゃ。結婚しとる」

「旦那さんに先立たれたのね?」

「旦那はピンピンしとるわ」

「じゃあ、お子さんが」

「娘は結婚して、孫が三人おる」

「それじゃ、どうして……」

ナラにはマリアの言うことが信じられなかった。愛する家族がいるのに、どうしてあんなにも孤独を抱えていたのだろう。

「お前はさっきわしの気持ちを吸い取ったから、そんなことを聞くんじゃろう?」

ナラは頷いた。

「寂しさというのはわしの生涯に付き纏っておった。それはときに大きく、深くなる」

ナラにはマリアの言うことがよく分からなかった。家族がいても寂しいなら、人は寂しさから逃れられないではないか。

「だけどナラ、さっきお前に感情を吸い取られて、分かったんじゃ」

マリアの声が心なしか明るくなった。

「わしが寂しかったのは、寂しい気持ちにしがみついとったからじゃとな」

「よく分からないわ」

ナラが首を傾げた。

雨がゴーゴーと唸りを上げる中、マリアは語ってくれた。何十年も昔、一緒になれなかった大切な人のこと。結婚しても、子どもができても、その人の面影に後ろ髪を引かれていたこと。その気持ちが、ずっと孤独を生み出していたこと。

「ナラ、わしはもう手放すよ。わしを寂しくしていた気持ちを。お前のお陰じゃ」

ナラはまだきちんと理解した訳ではなかったけれど、自分のお陰と言われ、得意気な気持ちが戻って来た。

「どう、信じたでしょ?私の力」

「ああ。お前は本物じゃ。素晴らしくて、危険な力じゃ」

マリアの顔が真剣味を帯びた。

「危険?」

「そう思わんかね?」

ナラはマリアの言っていることがよく分かった。祖母も同じ理由でナラに力を使うことを禁じていたからだ。

「私、危険だと思わないわ。これまでも上手く行ったし、これは私の使命だと思うの」

バスがまた大きく揺れた。今度はナラもマリアも何とかバランスを崩さずに持ちこたえた。

「使命か……。残酷じゃの」

マリアが呟くように口にした。ナラは急に怖くなって来た。亡くなった祖母との約束を破り、勝手に力を使っていることが。

「使っちゃいけないなら、神様はこんな力を私に与えなかった筈だわ」

ナラは一生懸命、力を使うことは正しいのだと、自分を納得させようとした。

マリアは慈しむような目をナラに向けていた。

「人は何かを与えられるとき、何かを差し出さねばならん」

マリアの声色は益々祖母のようだった。

「ええ、分かっているわ。私、一生懸命、自分を差し出しているつもりよ。人の苦しみを吸い取って、私だってすごく苦しんでいるわ。でもその苦しみの先に平和があるの」

マリアはそれ以上何も言わなかった。ナラは折角の得意な気持ちがすっかり冷め、反対に暗いものが心を覆って行くようだった。

窓の外に目をやると、もう海は見えず、ただ何もない道が続いていた。降り続く雨は止むどころか、益々その勢力を増していくようだった。

しばらくすると、隣で、マリアが小さな鼾をかき始めた。そこに浮かぶ穏やかで幸せそうな表情は、きっとナラが生み出したものだ。そうだ、人を幸せにする力が間違っている筈がない。

やがて、ナラもウトウト眠りに落ちて行った。

気が付いたとき、バスは停留所に到着していて、マリアが、ナラにそっと住所を書いた紙を渡して来た。ナラも、今は誰も住んでいない家の住所を彼女に渡した。今はその住所以外に、ナラが渡せる連絡先はなかった。

「マリア、どうもありがとう」

ナラはマリアに抱き着いた。

「お礼を言うのはこっちじゃ。ナラ、自分を大事にするんだよ」

ナラはマリアの家に泊めて欲しいと言うことができなかった。マリアもまた、そのことを口にしなかった。

バスを降りると、マリアには迎えの車が待っていた。おそらく旦那さんだろう。恰幅のいいおじいさんがマリアに向かって手を上げていた。マリアは車に向かって、真っ直ぐ進んで行った。ナラは祖母が自分から去って行くような寂しさを覚えた。

普段は心のどこかにしまい込んでいる、祖母を裏切っているという気持ちが強くなり、ナラを不安にした。マリアは実は本当のおばあちゃんで、力を使わないように、私に忠告しに来たんじゃないかしら。

空はすっかり暗くなっていたが、まだポツリポツリと小雨を降らしていた。ナラは雨降りの中、傘も差さずに一人、薄暗い夜道を歩き始めた。

 

6につづく

 

作者 小桐千歩

表紙絵 O_T_T(絵と図デザイン吉田)

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