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祖父の地と海

「ほな、とりあえずこれいといて」

「はい、えっと、これ、どうします?」

 ウカには真二しんじの言う「むいといて」がよく理解できなかったのだ。

「剥く。殻を剥くんよ」

 真二は海老を一つヒョイと大きな手に取り、殻を剥いて見せてくれた。やっと真二の言うことを理解したウカは海老を掴み、その体に指を食い込ませた。

「身ぃ潰さんように丁寧にな」

「みぃ?」

 ただでさえリスニング力に自信がないのに、ここの人達はみな方言で話す。だから余計に混乱してしまう。

「君、日本来てどんくらい?」

「二ヶ月です」

「料理屋で働いたことは?」

「ないです」

 ふむという風に真二が頷いた。次に何を聞かれるんだろうとウカは手よりも耳に神経を集中させてしまう。

「何で徳島?」

「はい?」

「何で東京や大阪行かんと徳島来たん?」

「あ、えっと、私の祖父、戦争とき中国来てそのまま中国育ちます。祖父は徳島人です。祖父はもう亡くなったですが、私は祖父の故郷興味持ちます」

「へー、何か深いな。じいちゃんは徳島のどこの人なん?」

「分からないです。祖父覚えるは『やすのぶ』いう自分名前と『とくしま』いう地名です。あと、祖父はよく海の話、しました」

「海か。海うたら鳴門か日和佐か……」

 話しながらも全く手の動きを止めない真二に、ウカは見とれてしまう。

「あの、ここで働くどのくらいですか?」

「うん?二十歳からやけん、もうすぐ十年」

「わあ、長いです」

 薬学部のウカの周りには、ひょろりとした学生が多く、真二のような体格のいい料理人に会うのは初めてだった。

「実はここ辞めて自分の店持つ予定なんよ。今はほれの準備中。君は夢とかあるん?」

 ウカの後ろでは、具材のたっぷり入ったスープがコトコトと音を立てている。

「将来は中国で薬の仕事したいです。私、小さいときお父さん病気で死んで、それで薬興味あるです。でも、今、一番やりたいは祖父の故郷を自分の目で見るです。私、自分の根っこ知りたいです」

元々ウカは、大学を卒業した後にお金を貯めて祖父の故郷を訪れようと考えていた。だけど、ウカの大学と徳島大学に交換留学の制度があることを知り、思い切って志願したのだ。日本語は独学で学んでいたが自信はなく、留学が決まったときは運命的なものを感じた。

「何や壮大やな。俺、応援するわ」

 真二が輪切りにしたスダチをキュッキュと小さな魚の上に乗せて行く。出来上がったのはウカがこれまでに見たことのない料理だった。

「これ、そのまま食べます?ちょっと怖いね」

 ウカが正直な感想を言うと、真二がははっと口を開けて笑った。

「これはぼうぜの姿寿司うて、秋限定の料理。頭からかぶりつくんが美味いんよ」

 徳島の郷土料理を提供する居酒屋だけあって、ウカの知らない料理がたくさんある。もしかしたら、祖父が子どもの頃口にしたものもあるかもしれない。

「徳島来て二ヶ月やろ?どっか行ったりした?」

「海は、行きました。私故郷海ないです。祖父の海見るは一番の目的でした」

「よかったら今度どっか連れてったげるわ。薬はあかんけど、じいちゃんの故郷見るんは、俺も手伝えるしな」

 この申し出にウカは笑顔で頷いた。真二から滲み出る快活さと、仕事に対する実直な様子に、ウカはこの人のことをもっと知りたいと思い始めていたのだ。

 

 

 

 同じ薬学部の中国人留学生シキとルームシェアする部屋に帰り着いたとき、ウカの体はくたくたに疲れていた。それなのに心は体と反比例するように元気を増していた。

「你回来了……おかえり。バイトどうだった?」

 ウカの帰宅を聞きつけたらしいシキが、自分の部屋から顔を出した。中国語を聞くと安心するのは、いつものことだ。

「一个身材……大きくて、優しい人が教えてくれた」

 ウカの言い方に真二への好意が滲み出ていたのか、シキがニヤニヤしながらリビングへ出て来た。

「你……その人を好きになった?」

「你说什么呀……何言ってるの。そんな訳ないでしょ」

 そう言いつつも、ウカは頬が紅潮するのを感じた。生まれてこの方恋愛経験のないウカは、今日初めて異性に興味を持ったかもしれなかった。

「诗纪……シキの方は彼氏と上手く行ってるの?」

「很顺利……もっちろん」

 シキは中国に彼氏を残して来ているのに、この余裕だ。いや、彼氏と繋がっているという実感があるからこその余裕なのかもしれない。

「その人と連絡先交換した?何か送ってみたら?」

 シキは、ウカが口とは裏腹に、真二に興味を持っていることをちゃんと見抜いているらしい。

「不要……できない」

「为什么?……何で?」

「因为……恥ずかしい」

 二十一歳で恋愛経験皆無のウカは、男の人とどんな会話をすればいいのか分からなかった。日本人は中学生や高校生でも男女交際するらしいが、中国では学生のうちは「勉強勉強」と言われる。就職したとたんに今度は「結婚結婚」と言われるのでたまらない。

 それに、自分は十ヶ月後には留学を終え徳島を離れる身だ。ウカは自分のルーツを探りに来たのであって、恋人を作りに来た訳ではなかった。

 かなり年上の、しかも日本人男性相手の恋など、全然現実的ではない。ウカはそう自分に言い聞かせた。

 今日初めて会った男性のことをここまで考えてしまうこと自体、ウカには初めてのことで、自分が変わってしまったかのような不安も覚えた。

 

 

 

「うじ、ないですね」

 ウカはガラス越しに広がる藍色の水面を、食い入るように眺めた。

「渦。うじちゃうで」

「あ、すみません。うず」

 初バイトから三週間経った今日、大学まで車で迎えに来てくれた真二が、鳴門なるとの「渦の道」に連れて来てくれたのだ。

週四日バイトに入っているウカは、今のところ週の半分以上真二と顔を合わせている。真二に対する想いが少しずつ成長して行くのを、ウカは止めることができずにいた。

「今日は遅いけん、今度はもっとはよう来て船乗ろ。船から見たら見える確率も上がるけん」

「海見るだけも嬉しいです。綺麗な海、きっと祖父子どもの頃も見た海です」

 祖父は四歳の頃、家族全員で開拓団として徳島から満州に移住した。貧しい農民だった祖父の父親が満州の地に希望を託してのことだった。

 終戦三ヶ月前に祖父の父親が招集された。残された家族も終戦間際、ソ連軍の襲撃を受けて死んでしまった。一人になった祖父は、戦後の混乱の中、中国人の養父母に引き取られた。このとき祖父はまだ六歳だった。

 養父母は祖父に暁光シャオグアンという名前を授け、我が子として大切に育てた。日本の話は一切しなかった。

だけど祖父は自分が日本人であることを知っていた。祖父の記憶には日本の風景がぺったりと張り付いていて、生涯忘れることがなかった。

「じいちゃんが語った徳島の思い出ってどんなん?」

 真二がウカの方を見た。

「祖父が言ったは、家の田んぼから青い海を見た。いつも海見える。海は笑ったり怒ったりする。お母さんがやすのぶ、やすのぶ呼ぶ声がする。お母さんの声優しい」

「じいちゃんは海の気持ちを読んどったんやな、お母さんのことも」

真二がウカを見ながら目を細めた。

 ウカは体が熱を持って来るのを感じた。まるで、これまで眠っていたウカの中の女の部分が急に目覚め始めたみたいだった。

「はい。あの、真二さん、またどこか一緒行く、いいですか?」

 ウカは思い切って真二を次のデートに誘った。真二と一緒にいると、ウカの理性はどこかに吹き飛んでしまうらしかった。

「うん、ええよ。じいちゃんの故郷巡り、いくらでも付き合うわ」

 ガラスの向こうでは、真っ赤に染まり始めた波が静かに揺れていた。

 日が暮れるのが随分早くなって来たようだった。

 

 

 

 この日、ウカはシキと二人で自らのアルバイトする居酒屋に来ていた。シキが徳島の郷土料理を食べてみたいと言ったからだ。無論、シキの真二を見てみたいという好奇心も透けて見えていた。

 店内は混み合っていたが、真二に伝えておいたお陰ですぐに座ることができた。

「你和……真二さんとのデート、楽しかったみたいじゃん」

シキが嬉しそうに口を開いた。隣のテーブルに座っているカップルがちらっとこちらを見た。中国語を話しているからだろう。

「嗯……うん、まあ」

 メニューに目を落としながら、ウカは小さく溜息を吐いた。 

ウカとシキが注文を終えたところで、厨房から大きな体がぬっと姿を見せた。そのままこちらに来たかと思うと、

「これ、サービスのぼうぜの姿寿司」

と言い、二人を交互に見て微笑んだ。そして、そのまま厨房の奥へと消えて行

った。

「他就是……今のが真二さん。優しそうな人じゃんって、何これ?」

 シキが顔をしかめた。

生魚を食べ慣れていないウカとシキは、しばらくの間、お腹にスダチを乗せた小さな魚を見つめた。

「我呢……私ね、自分が真二さんに惹かれたことで怖くなってる」

「害怕?……怖い?」

 シキが顔を上げてウカを見た。

「怎么说……だって真二さんは、私の考えていた恋愛対象とは全然違うんだもん」

「他又不是……中国人じゃないし、年齢も学歴も釣り合わないしって?」

 シキの語気が少し強くなった。ウカは俯き、考えを巡らせた。

日本人の真二を好きになったのは、自分に日本人の血が流れていることと関係あるのだろうか。

ウカが初めて祖父の出生の話を聞いたのは、まだ小学生のときで、それはウカにとって「自分は中国人だ」という確信が揺らいだ瞬間でもあった。その揺らぎがウカに日本語を学ばせ、出国をも決意させた。

降り立った祖父の故郷で発見したものは、確固たるアイデンティティではなく、思いがけず初恋だった。

「我是不是……私、中国人として真二さんを好きなのかな?それとも、私の日本人の部分が彼に惹かれるのかな」

 ウカはぼうぜの姿寿司を手に取り、ゆっくりと口に運んだ。酸味がじんわりと口内に広がった。

 

 

 

 真二との二度目のデートは、初デートから三週間が経ったときだった。外はすっかり寒くなり、雪が降らない分、寒さがそのまま体に突き抜けて来るようだった。

 去年までなら、今頃は雪に埋もれた街で、屋台の肉まんを頬張っていた。日本にも肉まんはあるが、コンビニのそれはいつも同じ顔をしていて味気なく感じてしまう。

「お待たせ」

 真二がウカの背中をトンと叩いた。ウカは阿波踊り会館の前で物思いに耽っていたらしい。

「中で待っとればええのに。寒かったやろ?」

「あ、えっと、はい」

 私服の真二と会うのは二度目だ。アルバイト先のTシャツ姿と違い、緑のセーターに黒のダッフルコートは、大人の男性という雰囲気が漂っている。

「入ろ。演目まではまだ時間、あるけどな」

 八月中旬に日本に来たウカは、ぎりぎり阿波踊りを見られなかった。そのことを話すと、年中阿波踊りの演目を見られるからと、ここを提案してくれたのだ。

 会場の手前にあるお土産屋さんを、ウカは真二の後ろをちょこちょこと付いて歩いた。妙に意識してしまい、自然に話し掛けることができない。真二はさっきからすだち酒と書かれた瓶や筒に入った海苔を手に取って眺めている。

 そのとき、ポケットのスマホがぶるっと震えた。見ると、シキからメッセージが届いていた。

「听说日本男的……日本人男性は、草食らしいから積極的に会話して」

 どこから仕入れてきた情報なのか、日本人男性と言っても色々だろうけど、と思いつつも、応援してくれる友達がいることが嬉しかった。

「あの、真二さん、これ、面白いです」

 ウカは阿波踊りを踊る小さな人形を指差し、真二に話し掛けた。同時に胸がドクドクと鼓動を打ち始めた。

「ん?竹人形やん。記念に買ったろか?」

 真二が大きな手でヒョイっと一つ手に取った。それは傘をかぶって踊る女踊りの人形だった。ウカは男踊りと女踊りがペアになっているものを欲しいと思ったが言い出せず、真二はさっさとレジに向かってしまった。

「ほい」

 戻ってきた真二がウカに小さな紙袋を渡した。

「ありがとうございます」

ウカはそれを大事に両手で受け取った。男性からプレゼントをもらうのが初めてで、思いがけず感動してしまった。

「お、これこれ」

 前を歩く真二が、いかにも日本風のお店の前で足を止めた。

「ちょっと寄ってええ?」

「はい」

そこは焼き餅と抹茶を出す甘味処で、真二は子どものように目を輝かせている。

「昔な、よおばあちゃんのおつかいで焼き餅買い行ったんよ」

「おつかい?」

「ばあちゃんに頼まれて買いに行ったってこと」

 真二の口から子どもの頃のことが語られるのは初めてだった。そう言えば、家族のことなど、ウカは真二のことを何も知らない。

 真二の勧めで、焼き餅とお抹茶のセットをウカも注文し、彼の正面に腰を下ろした。

「あ、美味しい」

「やろ?」

 真二の得意気な笑顔に、ウカはまたドキドキさせられてしまった。恋というのは、休む暇を与えてくれないみたいだ。

「そういやな、じいちゃんは結局、徳島に戻ってんかったんやな?」

 真二の言うじいちゃんは、勿論ウカの祖父のことで、真二はときどき祖父のことを尋ねて来る。

「はい、祖父はずっと中国で生きました」

 祖父は、日中間の国交が回復した後も、日本に帰国しなかった。ウカがその理由を尋ねると、「老婆和儿子……妻子が中国におったし、日本にもう家族はおらんかったから。それに、敵国の子どもだった自分を育ててくれた中国の両親の気持ちを一番に考えたかった」と語った。

祖父は最後の数年間は、寝たきりだった。父の命を奪ったのと同じ病気だった。祖父が息を引き取ったとき、ウカは十六歳で、高校生になったばかりだった。

今、祖父が生きていたら、何と言うだろう。祖父が帰らないと決めた故郷に一人やって来たウカを、応援してくれるだろうか。

「そろそろ行こか」

「あ、はい」

 真二の大きな背中に導かれながら、ウカは初めての阿波踊りを見るべく、会場に入った。手には竹人形の入った紙袋を、壊れないようにそっと持ち続けていた。

 

 

 

 ウカが真二の思わぬ過去を耳にしたのは、アルバイト先での休憩中のことだった。社員さんと店長が、真二の独立のことを話しているのを聞いてしまったのだ。

「まあ、真二もだいぶ立ち直ったし、いけるやろ」

「奥さんがのうなったときはどないなるんかと思いましたよね」

 二人の話からウカが理解できたのは、真二が何かから立ち直ったことと、真二には奥さんがいて彼女がどうにかなったこと、だった。

 ウカは休憩室の椅子に座り、飛び出しそうになる心を抑え、必死に耳を澄ませた。店長に事情を聞きに行こうかとも思ったけれど、結局、怖くてできなかった。

 ウカはスマホを取り出した。「のうなった」は動詞で、原形は「のうなる」だと思う。そこで、検索ワードに「のうなる」と打ち込んでみた。

「のうなる。紛失する。なくなる。人が亡くなる」

 表示された意味と、さっきの二人の会話を照らし合わせて、ウカは一つの結論を導き出した。真二の奥さんは亡くなった。

 それはいつも明るい彼からは想像のつかないことだった。奥さんがいたこともショックだったけど、彼が愛する人を失ったことはもっとショックだった。ウカはアルバイト中とデートのときと、自分のことはたくさん話した気がする。だけど、真二の身の上話は、ほとんど聞くことがなかった。

ちょうさん、休憩終わりじょ」

「あ、はい」

 店長に呼ばれ、ウカは重い腰を上げた。調理場で真二にどんな顔で会えばいいのか、分からなかった。

 

 

 

 真二との三回目のデートは、「眉山」だった。

 ウカはあのあとすぐにシキに、真二について知ってしまったことを相談した。シキは珍しく考え込んだ。

 ウカは真二には何も聞けないでいた。彼の秘密を知ってしまったあとも、何気ない風を装って接していた。

「大家都有……みんな色んな過去を抱えてるね」

結局、シキと話し合って出した結論はこれだけだった。みんな色んな過去を抱えている。

「もうすぐ着くけんな」

 真二が運転席から横目にウカを見た。口元にはいつもの微笑みが浮かんでいる。

「はい。あれ?」

 ウカは窓の外を見て思わず声を上げていた。さっきまでボーっとしていて気が付かなかったのだが、木々たちが薄っすらと化粧しているのだ。

「雪」

 声に出してみると、懐かしさが込み上げてきた。中国の故郷の、真っ白な景色が脳裏に浮かんだ。

 山頂に到着したのは、昼過ぎで、寒さが一層増していたが、ウカは全然気にならなかった。それよりも雪を見たことで故郷を思い出し、そのことで心がほっこり暖かくなっていた。

 周りにはウカたち以外に、人の姿は見えなかった。

「ほれ、見てみ」

 今日もダッフルコートに身を包んだ大人の真二が、目の前の景色を指差した。

 そこに広がっていたのは、いつか日本語の勉強のために見たジブリの映画のような、海に囲まれた街だった。

「このどっかに、じいちゃんが住んどったんやな」

 真二がそっと口にした。真二はまるで自分のことのように、祖父の故郷巡りに付き合ってくれる。どうしてこの人はこんなに優しいんだろう、とウカは思う。

「じいちゃんてな」

「あの」

 ウカが真二の言葉を制止した。今日は祖父のことよりも、もっと話したいことが他にあるのだ。ウカは、心を決めた。

「あの、この前に、店長たち話すこと聞きました。真二さんの奥さんについて」

 真二がウカを見た。彼の口元からは笑みが消えていた。

「ああ。聞いたんじゃ」

「すみません」

「いや、謝らんでええよ。あんな……」

 徳島を一望できる絶景を目の前に、真二がゆっくりと語り出した。奥さんとは調理の専門学校で出会ったこと。一緒に郷土料理のお店を開くという夢を持っていたこと。急に襲われた病魔、死。いつも明るい真二の口から出るそれらの言葉を、ウカは一言も聞き洩らすまいと真剣に聞いた。分からない単語が出てきたときはその都度、質問した。

 冷たい風が真正面から吹き抜けてきた。真二は構わず話し続けた。

 彼が話し終えたとき、ウカは言葉に詰まってしまった。目の前の人を慰めたい。応援したい。力になりたい。だけど、どうすればいいのだろう。

「真二さん、私、真二さんのお店、絶対行きます。ぼうぜの姿寿司食べます。真二さんの夢実現する、助けます」

 必死に絞り出した言葉だった。

「ありがとう」

 真二の顔には優しい笑顔が戻っていた。ウカはこの笑顔を見て、やっぱりこの人が好きだと思った。

「そういや、何か分かった?」

「はい?」

「自分の根っこ探したいってうとったやん」

 真二の不意打ちの質問に、ウカは考えた。祖父の故郷で暮らしてみて、何か分かったのだろうか。自分は中国人?日本人?故郷とは?どうして日本人の真二に惹かれるのか。

 考えれば考えるほど、混乱し、答えは一向に出そうになかった。

「今度、まとめます」

「はは、何や、レポートみたいやな」

 真二が笑い、ウカも一緒に笑った。

 また風がビュンと吹いて、ウカたちを囲んだ。ウカは何だか、祖父がそこにいて、この光景を見ているような気がした。

 

 

 

 年が明けて少し経った頃、ウカは寒空の中、真二に連れられて二度目の鳴門に来ていた。

「すごい、迫力」

 展望デッキに立ち、ズドーンという絶え間ない波音を直に聞きながら、ウカは初体験の船に、渦潮に興奮していた。

 真二への気持ちの行く先や、自らのルーツ探しは整理がつかないままでいた。シキには「你要珍惜……自分の気持ちを大切にして」と再三言われている。

 波しぶきが頬を撫で、渦が生き物のようにうねりを打った。 

「俺な、十五日付けで店辞めるんよ」

 冷たい潮風が二人を包む中、隣に立つ真二が口を開いた。

「自分の店持つ用意、整ったけん」

 ウカは下を向いた。真二が店からいなくなる。分かっていたことだが、いざそのときが迫ると、ウカは急に焦りを感じた。

 渦潮が何かを語り掛けるように、勢いよく水しぶきを上げた。

そのときふと、祖父の顔が頭に浮かんだ。

祖父は養父母が亡くなるまで、日本の思い出は一切口にしなかった。だから、早くに亡くなったウカの父親は、自分のルーツを知らないままだった。

知らない方がよかったのではないか。

何も知らないまま、生粋の中国人として生きた方が楽だったのではないか。知ってしまったからこそ、悩み、苦しまなくてはならない。

渦が一層激しく、波を巻き込んで行く。

優しかった祖父は、養父母の気持ちを汲み取り、故郷に帰ることをしなかった。

 だけど祖父は語り出した。養父母が亡くなったあと、胸に秘めていた故郷の思い出を。何十年も抱え続けていた思いを。

祖父は帰りたかったのかもしれない。自分の生まれた土地に。もう一度この海を見たかったのかもしれない。

 祖父がウカをこの地に導いて来た。ここでウカが出会ったのは、中国人の自分でも、日本人の自分でもなく、女としての自分だった。

「私、真二さんこと好きです」

 ウカは今、一人の女性として自分の気持ちに向き合おうとしていた。

 真二が驚いたようにウカを見た。

「俺……。ちょっと待ってな」

真二が、コートのポケットから小さな正方形の木箱を取り出した。

ウカは一体何が始まるのだろうと思い、掌にちょこんと乗せられた箱と真二の顔を交互に眺めた。

 箱は真二の震える手によってそっと開けられた。中身は白っぽい粉で、真二はその粉を右手に乗せると、ゆっくりと前に差し出した。粉は風に乗って海の奥へと消えて行った。

「遺灰なんよ。妻の」

 真二が奥さんのことを話すのは、一緒に眉山を登った日以来、初めてのことだった。真二の目は粉の飛んで行ったほうを見続けている。

「鳴門はな、妻と出会った場所なんよ。ほなけん、区切りにしよう思うて」

「区切り?」

「うん。前に進むきっかけ」

 真二は木箱を静かにコートのポケットにしまい、ウカの方に向き直った。

「ありがとう。好きうてくれて」

「はい」

「嬉しんやけどな……」

波が高鳴り、真二の声を掻き消した。

渦は変わらず弧を描き続けている。

二人を乗せた船は、間もなく桟橋に着こうとしていた。

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